恋をめぐる誤謬

「それはきっと、性欲をともなう強い好意、のことだと思う」

 

「好き」とは何か、について僕の好きな小説家は中1の女子(!)の口を通してそう表現している。*1

これまで古今東西の人間が恋とは何かという命題に挑んできた。そして恋が存在する限りその挑戦は終わらないだろう。そんな壮大な人類の営みに名を連ねるつもりはないが、ここでちょっとしたツッコミを入れてみようと思う。

 

「性欲のともなう強い好意」という表現は割りかし多くの人が納得するものだと思う。好きになった人に身体的に近づきたいと思うのは当然のことだし、恋愛には独占欲と言われるものがつきものだ。恋そのものを定義できてるとはいえないにしても、その諸相をズバッと言い表しているような気がする。

 

多くの人は恋とは何か?恋愛感情とは何か?という問いに対して、身体的側面と精神的側面に言及し、その両立をもって答えると思う。身体的側面では相手への身体接触の渇望や動悸(恋をするとドキドキするのだよ!)、あるいはもっとストレートに性欲の対象になるといった風に語られるし、精神的側面では独占欲、つまり相手の関心を全て自分へ向けたいという欲求やあるいは自分の思考が相手の存在で占められるといった事象がよく取り上げられると思う。

 

しかしこれは誤謬を含んでる気がしてならない。

身体的事象と精神的事象が同時に発生している、と記述することは恋において両者が互いに独立した事象だと僕たちが認識していることを意味する。もしこのように理解したときに何が言えるだろうか?

例えば独占欲、を取り上げてみよう。独占欲が渦巻いているとき、人は自らの精神の居場所を他者の中に求めている。それゆえに独占欲が満たされないと自己が引き裂かれるような思いになる。しかし、こうした性質を持つ強い好意というのは果たして恋愛関係に特有のものであろうか?独占欲を文字通り独占欲と捉え、精神の居場所を他者に求めるという文言を文字通り精神の居場所を他者に求めると捉えるならば、それは別に恋愛関係に限った事象ではないだろう。

仲がいいと思っていた友人に実は自分以上に仲良くしている他の友人がいたときに感じる疎外感。これだって精神の居場所を他者に求めたことで起こる事象だといえる*2。つまり、僕が言いたいのは恋愛の要件として了解されている精神的な作用そのものは、(先述したような字義通りに解釈するならば)決して恋愛に特有のことではない。

 

それでは恋と独占欲との間にはどのような差異が存在しているのだろうか?先に僕たちが確かめた認識に立てば、それは身体的な欲求だ。つまり、恋を身体的欲求と精神的欲求の両立と認識する立場に立つとき、独占欲(精神的欲求!)を感じる相手に対して同時に身体的欲求ーー端的にいえばそれは性欲だーーを感じているならばそれは恋と叙述することができる。

しかしちょっと考えてみればこれはナンセンスな話だ。当然ながら身体的欲求というのは恋愛感情を前提としたものではないし、異性というだけで相手に身体的欲求を感じることさえある(これは男性には割りかし理解できるのではなかろうか?)。もっと言えば身体的欲求というのはホルモンといういかんともし難い暴力によってかなりの部分が支配されている。このように考えたとき、同性異性や年齢の如何に関わらず抱く可能性のある精神的欲求を"たまたま"身体的欲求の対象となりうる相手に抱いたならそれは恋となり、"たまたま"そうでない相手に抱いたならそれは恋とならない。という帰結が導かれる。

 

恋を身体的欲求と精神的欲求の両立と捉えるというのは、つまりそういうことだ。

しかしこれは僕のなかのロマンティズムがそれを許さない!恋というのはもっと運命的で必然的であってほしいという願望をどうしても拭うことができない。前提は間違ってないような気がしていたのに、そこから導かれる帰結には納得することができない。

 

ここにきて、恋のおいて身体的欲求と精神的欲求というのはそもそも不可分である。という当たり前の考えに思い至る。恋を観察するときに要素に分解して身体的欲求やら精神的欲求やら取り出して語ること自体がそもそもの誤謬の原因なのだ。

そう考えるなら、僕たちが性欲と呼んでいる身体的欲求と恋をめぐる身体的欲求は比較を許さない本質的に異なるものと捉え直す必要がある(まあ本能的にはそれがわかっているのだろうが)。恋から性欲ないし身体的欲求を単体で取り出して語ることが許されない以上、恋について語るときには通常の性欲と全く異なる性欲の領域が論理的に要請されなければならない。

同じように精神の居場所を求めるような特別な行為(≒独占欲)も、通常のそれと恋に関わるそれは本質的に異なるものであって同列に比較することは許されないはずだ。

本来僕たちはこのことを直感的に、本能的に理解しているはずなのに、いざ理性的に分析しようとした途端にそれを無視して要素還元的思考をしてしまい、こうした誤謬に陥ってしまう。しかし恋をそうした要素還元的な手法で捉えようとすると恋は霧の向こうに隠れてその正体を見せなくなってしまう。

 

さあ、理性よりロマンチズムを信じた結果、僕たちは恋について恋以上の何も語ることができなくなってしまった。しかし今はそれでもいいと思う。

 

結局のところ、恋を語ろうとしたら詩人になるしかないのだろう。

 

 

 

 


スピッツ 恋は夕暮れ LIVE

恋とは何かを言い当てたとしか思えない極めて優れたラブソングだ。

 

 

 

 

 

 

*1:桜庭一樹(2017)『荒野』文春文庫刊

*2:ちなみに同性間でのこうしたシチュエーションが恋愛とアナロジカルな関係を持つことはこれがBL作品の恰好の題材であることから明らかだ