世界に潜む小さな魔法

線路の横にある小さな脇道は秋風の通り道

錆びだらけのフェンスが微かに揺れている

落書きと雑草は街外れの小道から人を追い出し

山手線の騒音だけが渋谷にいると教えてくれる

 

そこにいるだけで、自分が映画の登場人物になったかのように錯覚する瞬間がたまに訪れる。突然、目に入る全ての風景、聴こえてくる全ての音、肌に触れる全ての空気が気だるいヨーロッパ映画かのような質感をもって浮かびあがる。それはあまりに突然であまりに美しいので、僕は茫然として世界のそのままを受け入れることしかできない。

 それは確かに目の前の世界から僕の精神が作り上げた表象に過ぎないのだが、そうやって言語化した瞬間にその輝きは失われてしまう。

僕は映画監督でもミュージシャンでもないのでそれを伝える術は持たないが、言葉によってその輪郭を与えることはできるかもしれない(それはまるで透明人間にインクを吹きかけるみたいに!)。

 

映画の登場人物になったような感覚。と言ったが、実際には冷静に世界を観察している自分がいる。自分がそこにいないような感覚とでもいえばいいのだろうか?そう考えるとこの瞬間、自己と他者の境界線が曖昧になっているのかむしろ強固になっているのか、わからなくなる。

もし前者ならば何が起こっているのか?おそらく自己と世界を隔てようとする意識がどんどん小さくなっていて、知覚する世界を自分のことのように感じているだろう。つまり眼前の全てが映画的で美しく感じられるとき、自らが生来持っている美点を発見したかのような充実感・肯定感を覚えているはずだ。あるいはその逆で、そうした自己を肯定できたときに感じられる充実感や精神の安寧が、 知覚する世界と同一視されて美しく感じられる。という風にも考えることができる。

では後者なら?僕は世界を知覚するが、それはあくまで観察者としての視点であって自己と他者としての世界は峻別される。もちろん美しい世界の表象が僕の精神に作用して潤いを与えることはありえるし、逆に僕の精神状態が知覚の仕方に作用することもありえるだろう。しかしそれは自分と世界とを同一視するといった感覚ではないはずだし、それゆえ浮かび上がった表象がどのようなものか観察することができるはずだ。

 

…ますますわからなくなってきた。どちらも当てはまるような気もするし、どちらも違うような気もする。そもそも両者に明確な違いがあるのかすら怪しく思えてくる。便宜的に自己と世界の境界線を設定してそれがどこにあるのか探って見たが果たしてそれはこの不思議な現象を明らかにするうえで意味を持つのだろうか。

疑うことができないのは、日常のなにげない風景が美しい輝きを持って浮かび上がりそれをただそのままに受け入れている自分がいる、ということだ。振り出しに戻ってしまった。

 

何か確実に言えることはないのだろうか?ひとつ言えそうなのは、世界(=他者)が能動的に僕に作用していない、ということだ。つまり誰かが話しかけてくるとか、車がこっちに来て避けなければいけないとか、そういった僕の身体や精神に強制的に変化をもたらすような状態ではない。この瞬間における僕と世界の関係は(その境界がどこにあるにしろ)お互いに作用をもたらすけれども、特定の反応を要求するような関係ではない。静的な相互作用とでも言えばよいだろうか?

もうちょっとこの静的な関係について考えてみる。世界がどのように存在していたとしても、それ自体が僕の知覚のあり方を決定づけるわけではない。そこには僕の主体的な知覚の余地が残されている。これは静的な作用だ。しかし世界が僕に対して能動的に作用をしてきたなら、僕はある一定範囲内でのリアクションが求められるし(誰かが話しかけて来たときにいきなり服を脱ぎ出す人はいないだろう)、それゆえ意識もそこに向かざるをえなくなる。これは動的な作用になってしまう。

一方僕がどのように存在していても、それだけで僕の知覚する世界像が変化するわけではない。 あくまで僕の知覚する限りにおいてではあるが、僕は世界に何もすることなくそのままの状態にしている。これは静的だ。しかし例えば自販機でジュースを買うとか小石を蹴るとかすれば動的な関係がそこに生じることになる。

 

僕と世界の間にこうした関係が成立しているとき、どちらも能動的な作用を及ぼしていないのだから主客という自己と他者を区別する感覚が希薄になる。 しかし一方で僕は世界からほったらかしにされているわけだから、自分がそこにいないような感覚を覚えるのも納得がいく。自己と他者の境界線が曖昧になりながらも明確に存在しているという重なり合った状態が生じているということだろうか?

 

なんだか騙されたような気分ですっきりしない。ただ、どうやらこの静的な相互作用というのが、世界がそのままで煌めいて感じられる不思議な現象の必要条件ではありそうだ。これは一般的には孤独な状態というべきだろう。何人たりとも僕の意識のいかなる部分も占めていないのだから。しかし孤独でなければ当然世界との静的な関係は成立しない。他人とのアクセスをシャットアウトして自らの知覚に任せることで世界のあり様の一つひとつが美しく感じられるかもしれないのなら、孤独もまた悪くはない。*1

 

 

 

 

*1:なんだか堂々巡りになってきたのでここでやめる。前回が長くて抽象的な話だったから、もう少し具体的で感覚に訴えかけるような話題にしようと思ってたのにどうしてこうなった……