表現という行為

こんなに長くなるとは思っていなかった。しかし一度書き始めた以上区切りがつくまでは書いてみようと思う。というわけで「映画的な アニメ的な」の続きだ。

checkpointcharlie.hatenablog.com

 

「そのメディアでしか実現できない表現を追求している作品」を僕は評価したい、と言った。そしてそれはあるものを表現しようとするときに、どのようなメディアを選択するかそしてそのメディアにおいて可能な手法をどのように用いるか、というのが作品のより深く理解する鍵になると考えるからだ。

「何を表現しているか」よりむしろ「どのように表現しているか」を問うのはなんだか倒錯した発想のように思える。この疑問を解消するには「表現という行為とは何か」と問わなければならない。果たして表現とは一体何なのだろうか?

 

例えば目の前に絶世の美女がいるとしよう。あなたはその美しさに衝撃を受け、何とかしてかたちに残し伝えたいと考えるだろう。表現の登場だ。

しかしここで大きな問題に直面する。あなたは美女の美しさを表現しようとしているが、その美女に対峙した際にあなたが感じとる美しさと他者が感じとる美しさというのは同じといってよいのだろうか?あるいはあなたは美女の美しさをそのままのかたちで正しく感じとっているのだろうか?そもそも「美女の美しさ」なるものは本当に存在するのだろうか?

一つ目の疑問は容易に否定してよいだろう。人によって美醜の基準というのは異なっており、あなたにとって絶世の美女でも他者にはそうでないという事態は十分にありえる。したがって二つ目の疑問も否定できる。同じ人物を見たとしてもそこから感じとる美しさは多様である以上、自分の感じた「美しさ」こそが正しいと主張するのはあまりにも乱暴だ。

では三つ目の疑問はどうだろう?目の前に美女は確実に存在する(もしその存在を疑うとなるとそれはこの記事では手の負えない議論に発展する)。しかし「美女の美しさ」なるものは存在しているといえるのか。僕は存在しないと考える。なぜならその美女は本来単にある顔のパーツの配列や身体的特徴を有しているに過ぎず、観察者という媒介を仮定して初めて「美しさ」という属性が付与されるからだ。それにもしそのようなものが存在するとすれば、あなたが感じとる美しさと他者が感じとる美しさの間に、「どちらがより本来の美しさに近いか」という優劣が生じることになってしまう。

こうして考えると、あなたが表現しようとしているのは「美女の美しさ」ではなく「美女に対峙したときにあなたの心に浮かび上がった美しさ」といえる。これは表現という行為の本質的側面の一つといっていい。つまり表現という行為の客体は、表現者という主体が何かを知覚したときに生じる表象なのだ。*1

 

あなたはあなたが知覚する「美女の美しさ」を表現しようとしていることがわかった。しかしまだ表現という行為は終わっていない。「美しさ」という表象を文学なり映画なりといった特定のメディアに流し込み、他者にもわかるように作品としてパッケージして初めて表現という行為が完了する。

しかしここでも大きな問題が起こる。果たして知覚の中に存在する表象を正確に具現化することはできるのか、という問題だ。あなたは自分が感じた「美女の美しさ」を思い通りに文字や映像に変換できているのだろうか?

当然、これも否定されるべきだ。表象というかたちのないものと作品という他者にも認知されるものが合同だとはいえない。ではこの両者の間には何が介在しているのか?

例えば「美女の美しさ」をイラストにするとしよう。あなたは筆やペン、あるいはフォトショップを用いてイラストを作成するだろう。そのとき、あなたは"手"を使ってイラストを描くはずだ(もちろん口や足を使って描く人もいるのだが)。

あるいは小説にするとしよう。このときもあなたはペンやワードを用いるだろう。これは本質的にはどうでもいい。結局は活字にされるのだから。しかし、この記事を読んでるならば、あなたは"日本語"で小説を書くはずだ。

つまり、表象と作品の間には本質的に身体もしくは言語が介在しているはずだ。*2*3

 どのような表現をするにも身体と言語から逃れることはできない。どれだけ熟練したピアニストであってもいかなるプレイも弾きこなせるわけではないし、どれだけ卓越した詩人でもその言語に存在しない概念を言い表すことはできない。

 

表現という行為について考えてきたが、ここでそれを定義することができそうだ。表現とは「ある主体が知覚した表象を身体もしくは言語を媒介として第三者に知覚できるようにすること」だ。

 

さて、「何を表現しているか」と「どのように表現しているか」の問題だ。

表現の定義を獲得した僕たちは「何を表現しているか」は表象の領域、「どのように表現しているか」は身体と言語の領域であることを理解する。 ここで問題にしたいのは、主体性はどこに存在できるかということだ。

 表象の領域において、主体の能動的役割は限りなく小さい。僕たちは世界をどのように知覚するかをコントロールできるだろうか?たしかに新しい価値観に触れることで物事の見方は広がっていく。しかしながらそれは知覚の条件を用意したに過ぎず、知覚そのものに作用するわけではない。表象というのは僕たちの精神に自然と湧き上がるものであってそれ自体をどうにかすることはできない。*4もちろん、どのような表象を取捨選択するかという段階においては主体性が認められる。しかし選択肢となる表象そのものが自然発生的なものである以上、主体性の役割は相対的に小さいと言わざるをえない。

一方、身体と言語の領域においては主体は一定の能動的役割を果たしうる。例えばイラストを描いているときに思う通りに書けなかったら人はどうするだろうか?試行錯誤を重ねるのではないだろうか?身体と言語による規定は本質的なものであって、それを超克することはできない。しかし拡張することはできる。そしてそれは表現者による能動的行為だ。

つまり「何を表現しているか」において表現者の主体性はとても弱い存在である。もちろん表現者すらコントロールすることのできない表象という現象を探ることは作品の理解において重要だ。しかし僕はあえて「どのように表現しているか」を重要視したい。それを探ることは表現者がどのように身体と言語という表現上の規定と格闘し、理想とする表現を生み出してきたかを探ることに他ならない。*5

 

ところで、映画や音楽といったメディアの違いはそのまま身体や言語による規定の違いに直結する。例えば映画と演劇の間には場所性と時間性といった規定の違いが存在する(身体は場所的・時間的存在だ)。こうしたメディアに固有の身体と言語の規定の中で、表現の可能性を模索しその境界線を拡張しようとすることが、そのメディアでしか実現することのできない表現を生み出していくのではないだろうか?

映画的な映画、アニメ的なアニメというのは表現者が映画に固有の規定、アニメに固有の規定と格闘してきたことで生まれた境界線上の作品だ。それゆえに僕はそこに必然性を感じ心を打たれるのだろう。

 

*1:この帰結は例として「美女の美しさ」をあげたことによる恣意的なものかもしれない。では表象の介在を許さない表現は考えうるだろうか?そのためには現実に存在するものを何の作為も加えることなく提示する必要がある。ここで思い浮かべるのは「レディメイド」と呼ばれる美術概念である。レディ・メイド | 現代美術用語辞典ver.2.0によるとそれは「大量生産された既製品からその機能を剥奪し『オブジェ」』として陳列したもの」だ。機能の剥奪という箇所に作為の余地がありそうだが、一方でそれは「人称性や作品への美学的判断の介入をも切断する」としている。つまりレディメイドは僕たちが検証している「表象の作用」に切り込んだ美術領域だといえそうだ。こうしてみるとレディメイドが投げかけるものは非常に大きいが、一般的な表現においては表象の介在を前提として議論を進めてよいだろう。

*2:表象と作品の間に文化的バックグラウンドも介在しているのではないかと考える人もいるだろう。尤もな指摘ではあるが、しかし身体や言語と同列に並べるのは間違っていると思う。身体や言語による制限はそれ自体が文化的バックグラウンドを内包しているからだ。とはいえ文化的バックグラウンドの作用を無視することはできないのでこれらの関係もいつか議論する必要がある(つまり今回は思考を放棄する)。

*3:ここでも思い浮かべるのは「レディメイド」だ。既に世界に存在するものを表現者の作為を介在させずに作品として提示するとき、そこに身体もしくは言語という表現の本質的規定は作用しているのだろうか?ここでそれを議論することはしないが、おそらく「レディメイド」はそうした表現の本質的規定を揺さぶる美術概念なのだろう。改めて「レディメイド」の投げかける視座の鋭さに驚嘆を隠すことができない。

*4:一方で表象の発生を受動ということにも無理がある。こうした自らが主体でありながらも、能動的に行為するわけではない現象をどう扱うかについては『中動態の世界』(國分功一郎著)が興味深い論点を提示しているので一読をおすすめする。

*5:表現という行為について深く考えるにつれて「何を表現しているか」という領域も意外とバカにできない重要性を帯びていることに気がついた。表現者すら自覚することのない作用の意味を考えることは作品の理解において一段と深い視座を与えてくれる。記事の整合性からあえて主張を変えることはないが、こうして新たな視座を発見できたのはこのブログを書いている目的に合致する。