映画的な アニメ的な

ベッドシーンというのはどうしてあれだけ美しいのだろう。

最近「アデル、ブルーは熱い色」という映画を観た。レズビアンの女性が運命的な女性と出会い、恋に溺れ、別れ、そして新しい人生を生きていく。そんな内容だった。

この映画は公開当時、過激なベッドシーンで物議を醸したらしい。しかし実際に観てみると、主人公が恋人に出会い共に過ごす喜びとその溺れゆくような欲望を、火花のように燃え上がる一瞬の刹那で表現するためには、そのベッドシーンは必要不可欠だと思えた。そこには主人公がこれまで送ってきた人生、抱いている感情、どうすることもできない衝動、そうした諸要素が一瞬のうちに結実していた。

もしあれが小説だったなら、あれだけ美しい場面にはならなかっただろう。あのベッドシーンにおける表現は、女優の息遣い、髪の乱れ、部屋の様子、カメラワーク、フィルター、そうした映画的手法を通じて実現されていたものだ。それは映画でしか表現しえない美しさだ。それは小説であってはいけないし、テレビドラマであってはいけないし、ましてやポルノであってはいけない。

 

映画でしか表現できないものを追求した映画には観るものを惹き込んでしまう美しさと説得力がある。映画的としか言いようがない美しさがそこに立ち上がり、これは映画でこそ表現されなければならなかったと思い至る。いわば映画的必然が実現されているのだ。僕はこうした映画に巡り会うと満ち足りた気分になる。

 

もちろんこれは映画に限った話ではない。最近僕がこれはと思ったアニメに「リトルウィッチアカデミア」がある。単なる記号に留まらない生き生きとしたキャラクターやお決まりの展開のようで丁寧に描かれることで充実した内容を獲得したストーリーも評価すべきだと思うが、この場で僕が言及したいのはその映像表現だ。

アニメは絵である、しかも動く絵である。だから映像表現の可能性は実写映画の比ではない(もちろん実写映画には実写映画にしかできない表現があって、優劣があるわけではないが)。アニメなら人間の身体の一部分を極端に大きくすることができるしスライムみたいに動かしたり一瞬のうちに色を変えることだってできる。そしてそうしたアニメ特有の映像表現はこれまでのアニメの歴史の中で試行錯誤され確立されてきたものに違いない。

リトルウィッチアカデミア」はそうしたアニメのクリシェをそのキャラクターやストーリーにふさわしい形で効果的に用いている。

 

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例えばこの動画の2:20からのシーンでは、スーシィマンババランが顔に貼りついた鳥を引き剥がしているが、このとき鳥はあたかも吸盤か何かのような動きをしている。もちろんこの鳥が魔法によって吸盤の性質を獲得したわけではなくて、動作を誇張するための一種のアニメ的語法である。これによってコミカルなテンポ感を演出していることがわかるだろう。他のシーンでもこうしたアニメ独特の表現手法が随所に用いられている。

 このようにアニメ的手法を効果的に用いることで「リトルウィッチアカデミア」はその表現しようとする対象をアニメでしかなしえないかたちで実現している。僕がこの作品を評価しているのは、そうしたアニメらしいアニメを丁寧に作り上げているからだ。(そしてキャラクターとストーリーも素晴らしい!)

 

僕は作品を評価する際に「そのメディアでしか実現できない表現を追求しているか」という点を重要な基準の一つにしている。それはそうした視点が作品の本質的理解に近づくことができると考えているからだ。

映像や音楽、演劇、その他の芸術作品などを評価するときは一般に「何を表現しようとしているか」という点が重要視されがちである。しかし「何を表現しようとしているか」と同じくらい、あるいはそれ以上に「どのようにして表現を実現しているか」「なぜその表現を用いたか」という視点は作品の本質に肉薄しているのではないだろうか?言い換えればあるものを表現しようとするときに、その実現のためにどのようなメディアを選択するかそしてそのメディアにおいて可能な手法をどのように用いるか、というのは作品における表現の本質に非常に近いものなのではないだろうか?

 

表現という言葉が複数の意味的階層にわたっているため(当然ながら「なにを表現しようとしているか」の「表現」と「なぜその表現を用いたか」の「表現」は違う意味を指し示している)議論がわかりにくくなっている。つまりこういうことだ。同じ悲しみを表現しようと思っても映画でセピア色のフィルターを用いることもあれば、音楽でマイナースケールを用いることもある。しかしその作品を理解するうえでより大切なのは、その背後に潜む悲しみを汲み取ることではなく、手段として用いられたセピア色のフィルターやマイナースケールなのである。

 

僕たちは今どのように作品を理解するべきか考えている。しかし表現という行為が一体何であるのかを考えない限り、上記の主張はまったくの当て推量である。そしてそのことについて考えることで、表現という行為の限界も見えてくるのではないだろうか?

長くなってきたので問いかけをしてみたところで一度筆を置き、また改めて表現という行為について考えてみたい。

続く。