人生に意味はない

「やる気のあるものは去れ」

 

タモリ(日本のタレント 1945〜)がかつてオールナイトニッポンのスタッフに向けて語った言葉だ。これを聞いた人間はひどく困惑し、中には血相を変えて批判を試みる者もいるだろう。しかし僕に言わせればこれは至極正しい。やる気のある人間ほど鬱陶しく、そして面白みのない人間はいない。

 

やる気というのは目標に向かって自らを鼓舞しようとする精神的姿勢を意味する。つまりやる気のある人間は目標という一つのベクトルしか見えていない。だから僕には見える素晴らしい世界の一つひとつを彼らには見ることが出来ない。歩きながら熱心に本を読む人間は目の前に咲く花の美しさに気付かない。可哀想に。

それどころか彼らは目標という印籠を振りかざして、森羅万象を意味のあるものとないものに二分してしまう。自然と浮かび上がる好奇心の赴くままに観察すれば面白いものを意味がないと切り捨ててしまう。やる気のない僕からしたら非常に迷惑な話だ。しかも自分たちに大義名分があると思い込んでいるから余計にたちが悪い。

 

……悪口が過ぎてしまった。とにかくやる気の持つ弊害を看破したタモリの観察眼は見事としか言いようがない。(ちなみに彼はゴルフの場で「真面目にやれ!仕事じゃないんだぞ!」という言葉も残している。)

 

彼の発言と思想に出会った頃はその達観したカッコよさに感銘を受けつつもどこか納得しきれないところがあったが、歳をとるにつれその言葉の重みは増してきた。それだけ僕の思想も変化してきたということだろう。

 

「将来は世界を変えるビッグな人間になる」なんて微笑ましい夢を誰もが一度が抱くものだと思う。当然僕もその一人だった。

これは別に世界を変える素晴らしいアイデアを持っているわけでも見過ごすことのできない社会の矛盾を発見したわけでもなくて、自分の生きた証をなるべく多くの人間の記憶に残るかたちで残したいーー言い換えれば自分の人生が無意味に終わることへの恐怖感が生み出した願望だ。人間というのはそれだけ自分が生きる意味にこだわる生き物なのだろう。

 

意味のある人生とはいったいどんなものだろう?広辞苑を引いてみると(一度言ってみたかった!)、「意味」の項には「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」とある。つまり意味のある人生とは「他との連関において」重要な人生、ということになる。ここでいう"他"とはさしずめ家族や仕事、あるいは社会や国家にあたるだろう。

たしかに結婚して家庭を築くことがあれば家族にとって重要な人間になることができるだろうし、出世すれば仕事において重要な役割を果たすことができるだろう。そうした人生は多少なりとも意味はあるかもしれない。あるいは歴史上といわれる人物の中には社会や国家のあり方を変え、今でもその影響を残している人が数多くいる。こうした人たちの人生には大きな意味があったと言えるかもしれない。

しかし今生きている人たちのほとんどは歴史に名を刻まれることなく名もなき人として埋没していく。そもそも歴史に名が残るかどうかなんて後世の判断に委ねられていて自分ではどうすることもできない。もっと言えば一個人がどれだけの偉業を成し遂げたとしても、毎日太陽が昇りそして沈んでくことを止めることはできないし、いつの時代にもあったように人々が呼吸をして暮らしをして恋をすることを変えることはできない。

そう考えると人間の考える人生の意味というものが随分とちっぽけなものに思えてくる。そんな大したことのない人生の意味のために日々思い悩んで過去を振り返り未来を夢想するのだろうか……

 

僕たちの人生は実体を持たない意味なるものに支配されてはいないだろうか?

それでは自らの人生を有意義なものにしようと思い悩むなかで意味という一つのベクトルしか見えなくなってしまう。意味に支配された人生では他者にとっての重要性に気を取られ自分が人生の主体となることができない。過去での出来事と未来での意味ばかり見てしまい目の前に咲く花の美しさに気付くことができない。せっかく世界には面白い物事で溢れているのにそんなもったいないことはない。

 

それなら人生に意味なんて必要ない。ただ目の前に咲く花の美しさに心を動かされ、過去や未来や他者に左右されることなく今自分がしていることを面白がり、何にも縛られることなく自然と浮かび上がる好奇心の赴くままに世界の有り様を探求すればいいのだ。

 

あえて言おう、人生に意味はない。