性欲と性癖

いつからか、トマトジュースを見ると性的に興奮するようになってしまった。

綺麗な女性がドロっとしたトマトジュースを飲む姿は何だか黒魔術の儀式に備えてるみたいだ。今ではドロドロのトマトジュースを見るだけでゾクゾクしてしまう。

 

こうした現象をフェティシズム、というらしい。本来は性的な意味が付加されてないはずの物体に興奮してしまう人間たち。タイツフェチの人間はタイツが女性の脚に纏われていようがいまいがタイツそのものに興奮してしまう。

 

しかし考えてみれば不思議な話だ。なぜならフェティシズムはセックスの本来の目的ーー生殖に何ら利することがない!

 

話を変えよう。

マゾヒストと呼ばれる人がいる。彼らはセックスの時に肉体的ないし精神的な苦痛を受けることに快楽を覚える。もちろんそれは縄で吊るされ、痴態を嘲笑され、しかし身体的接触はない、例えばそんな行為が"セックス"の範疇に含まれればの話だが。

 

僕たちは性欲から逃れることが出来ない。それは種を絶やさないために進化が肉体に仕込んだ呪いだ。しかしそんな子孫を残すという本能に叶わない不合理な性欲を僕たちは抱いてしまう。

 

どうやらセックスには肉体に刻まれた本能とはまた違う領域が存在するらしい。

 

その領域に"性癖"という記号を与えてみよう。

性癖は不合理な欲望を抱かせる。性癖はエクスタシーへ導く。性癖は世界に新たな価値を与える。

 

性欲が肉体的な本能から生まれるのなら、性癖は精神世界が生み出す欲望といえる。

フェティシズムマゾヒズムはおそらく肉体的な本能とはいえず、精神的な現象だろう。だから僕がトマトジュースに興奮するのは性欲じゃなくて性癖だ。

これまで性欲だと思っていた欲求も、その根源を紐解いていくと実は性癖だった、なんてことが十分ありえるし、もしかしたら性欲と性癖が複雑に絡み合ったある意味とても人間的な欲求かもしれない。

 

しかしこう考えると性癖というのは実に厄介で恐ろしい欲望だ。

肉体には限りがある以上、性欲は底が知れているからある程度コントロールできるし、肉体的欲求は誰でもそれなりに共通しているのだから社会でも理解されやすい。(もちろんそれを上手く隠して然るべき場所で満たすことを求められいるのだが)

ところが性癖はそうもいかない。精神が生み出す欲望は終わりを知らない。一度満たされてももっともっとと求めてしまう。それに奇妙に発達した性癖(トマトジュース!)というのは、そう簡単には満たすことができないし理解も得られにくい。

 

おそらく性癖は、僕らがいつもは隠していて意識することのない心の傷や幼少期の記憶、生まれ持った性格といった歪みがセックスというフィールドに浮かび上がって歪んだ自己を満たそうとしたものなのだろう。だから性癖を矯正しようと思っても上手くいかず、果てには人を狂わせたりしてしまう。

 

僕たちは性癖から逃れることができない。