恋をめぐる誤謬

「それはきっと、性欲をともなう強い好意、のことだと思う」

 

「好き」とは何か、について僕の好きな小説家は中1の女子(!)の口を通してそう表現している。*1

これまで古今東西の人間が恋とは何かという命題に挑んできた。そして恋が存在する限りその挑戦は終わらないだろう。そんな壮大な人類の営みに名を連ねるつもりはないが、ここでちょっとしたツッコミを入れてみようと思う。

 

「性欲のともなう強い好意」という表現は割りかし多くの人が納得するものだと思う。好きになった人に身体的に近づきたいと思うのは当然のことだし、恋愛には独占欲と言われるものがつきものだ。恋そのものを定義できてるとはいえないにしても、その諸相をズバッと言い表しているような気がする。

 

多くの人は恋とは何か?恋愛感情とは何か?という問いに対して、身体的側面と精神的側面に言及し、その両立をもって答えると思う。身体的側面では相手への身体接触の渇望や動悸(恋をするとドキドキするのだよ!)、あるいはもっとストレートに性欲の対象になるといった風に語られるし、精神的側面では独占欲、つまり相手の関心を全て自分へ向けたいという欲求やあるいは自分の思考が相手の存在で占められるといった事象がよく取り上げられると思う。

 

しかしこれは誤謬を含んでる気がしてならない。

身体的事象と精神的事象が同時に発生している、と記述することは恋において両者が互いに独立した事象だと僕たちが認識していることを意味する。もしこのように理解したときに何が言えるだろうか?

例えば独占欲、を取り上げてみよう。独占欲が渦巻いているとき、人は自らの精神の居場所を他者の中に求めている。それゆえに独占欲が満たされないと自己が引き裂かれるような思いになる。しかし、こうした性質を持つ強い好意というのは果たして恋愛関係に特有のものであろうか?独占欲を文字通り独占欲と捉え、精神の居場所を他者に求めるという文言を文字通り精神の居場所を他者に求めると捉えるならば、それは別に恋愛関係に限った事象ではないだろう。

仲がいいと思っていた友人に実は自分以上に仲良くしている他の友人がいたときに感じる疎外感。これだって精神の居場所を他者に求めたことで起こる事象だといえる*2。つまり、僕が言いたいのは恋愛の要件として了解されている精神的な作用そのものは、(先述したような字義通りに解釈するならば)決して恋愛に特有のことではない。

 

それでは恋と独占欲との間にはどのような差異が存在しているのだろうか?先に僕たちが確かめた認識に立てば、それは身体的な欲求だ。つまり、恋を身体的欲求と精神的欲求の両立と認識する立場に立つとき、独占欲(精神的欲求!)を感じる相手に対して同時に身体的欲求ーー端的にいえばそれは性欲だーーを感じているならばそれは恋と叙述することができる。

しかしちょっと考えてみればこれはナンセンスな話だ。当然ながら身体的欲求というのは恋愛感情を前提としたものではないし、異性というだけで相手に身体的欲求を感じることさえある(これは男性には割りかし理解できるのではなかろうか?)。もっと言えば身体的欲求というのはホルモンといういかんともし難い暴力によってかなりの部分が支配されている。このように考えたとき、同性異性や年齢の如何に関わらず抱く可能性のある精神的欲求を"たまたま"身体的欲求の対象となりうる相手に抱いたならそれは恋となり、"たまたま"そうでない相手に抱いたならそれは恋とならない。という帰結が導かれる。

 

恋を身体的欲求と精神的欲求の両立と捉えるというのは、つまりそういうことだ。

しかしこれは僕のなかのロマンティズムがそれを許さない!恋というのはもっと運命的で必然的であってほしいという願望をどうしても拭うことができない。前提は間違ってないような気がしていたのに、そこから導かれる帰結には納得することができない。

 

ここにきて、恋のおいて身体的欲求と精神的欲求というのはそもそも不可分である。という当たり前の考えに思い至る。恋を観察するときに要素に分解して身体的欲求やら精神的欲求やら取り出して語ること自体がそもそもの誤謬の原因なのだ。

そう考えるなら、僕たちが性欲と呼んでいる身体的欲求と恋をめぐる身体的欲求は比較を許さない本質的に異なるものと捉え直す必要がある(まあ本能的にはそれがわかっているのだろうが)。恋から性欲ないし身体的欲求を単体で取り出して語ることが許されない以上、恋について語るときには通常の性欲と全く異なる性欲の領域が論理的に要請されなければならない。

同じように精神の居場所を求めるような特別な行為(≒独占欲)も、通常のそれと恋に関わるそれは本質的に異なるものであって同列に比較することは許されないはずだ。

本来僕たちはこのことを直感的に、本能的に理解しているはずなのに、いざ理性的に分析しようとした途端にそれを無視して要素還元的思考をしてしまい、こうした誤謬に陥ってしまう。しかし恋をそうした要素還元的な手法で捉えようとすると恋は霧の向こうに隠れてその正体を見せなくなってしまう。

 

さあ、理性よりロマンチズムを信じた結果、僕たちは恋について恋以上の何も語ることができなくなってしまった。しかし今はそれでもいいと思う。

 

結局のところ、恋を語ろうとしたら詩人になるしかないのだろう。

 

 

 

 


スピッツ 恋は夕暮れ LIVE

恋とは何かを言い当てたとしか思えない極めて優れたラブソングだ。

 

 

 

 

 

 

*1:桜庭一樹(2017)『荒野』文春文庫刊

*2:ちなみに同性間でのこうしたシチュエーションが恋愛とアナロジカルな関係を持つことはこれがBL作品の恰好の題材であることから明らかだ

世界に潜む小さな魔法

線路の横にある小さな脇道は秋風の通り道

錆びだらけのフェンスが微かに揺れている

落書きと雑草は街外れの小道から人を追い出し

山手線の騒音だけが渋谷にいると教えてくれる

 

そこにいるだけで、自分が映画の登場人物になったかのように錯覚する瞬間がたまに訪れる。突然、目に入る全ての風景、聴こえてくる全ての音、肌に触れる全ての空気が気だるいヨーロッパ映画かのような質感をもって浮かびあがる。それはあまりに突然であまりに美しいので、僕は茫然として世界のそのままを受け入れることしかできない。

 それは確かに目の前の世界から僕の精神が作り上げた表象に過ぎないのだが、そうやって言語化した瞬間にその輝きは失われてしまう。

僕は映画監督でもミュージシャンでもないのでそれを伝える術は持たないが、言葉によってその輪郭を与えることはできるかもしれない(それはまるで透明人間にインクを吹きかけるみたいに!)。

 

映画の登場人物になったような感覚。と言ったが、実際には冷静に世界を観察している自分がいる。自分がそこにいないような感覚とでもいえばいいのだろうか?そう考えるとこの瞬間、自己と他者の境界線が曖昧になっているのかむしろ強固になっているのか、わからなくなる。

もし前者ならば何が起こっているのか?おそらく自己と世界を隔てようとする意識がどんどん小さくなっていて、知覚する世界を自分のことのように感じているだろう。つまり眼前の全てが映画的で美しく感じられるとき、自らが生来持っている美点を発見したかのような充実感・肯定感を覚えているはずだ。あるいはその逆で、そうした自己を肯定できたときに感じられる充実感や精神の安寧が、 知覚する世界と同一視されて美しく感じられる。という風にも考えることができる。

では後者なら?僕は世界を知覚するが、それはあくまで観察者としての視点であって自己と他者としての世界は峻別される。もちろん美しい世界の表象が僕の精神に作用して潤いを与えることはありえるし、逆に僕の精神状態が知覚の仕方に作用することもありえるだろう。しかしそれは自分と世界とを同一視するといった感覚ではないはずだし、それゆえ浮かび上がった表象がどのようなものか観察することができるはずだ。

 

…ますますわからなくなってきた。どちらも当てはまるような気もするし、どちらも違うような気もする。そもそも両者に明確な違いがあるのかすら怪しく思えてくる。便宜的に自己と世界の境界線を設定してそれがどこにあるのか探って見たが果たしてそれはこの不思議な現象を明らかにするうえで意味を持つのだろうか。

疑うことができないのは、日常のなにげない風景が美しい輝きを持って浮かび上がりそれをただそのままに受け入れている自分がいる、ということだ。振り出しに戻ってしまった。

 

何か確実に言えることはないのだろうか?ひとつ言えそうなのは、世界(=他者)が能動的に僕に作用していない、ということだ。つまり誰かが話しかけてくるとか、車がこっちに来て避けなければいけないとか、そういった僕の身体や精神に強制的に変化をもたらすような状態ではない。この瞬間における僕と世界の関係は(その境界がどこにあるにしろ)お互いに作用をもたらすけれども、特定の反応を要求するような関係ではない。静的な相互作用とでも言えばよいだろうか?

もうちょっとこの静的な関係について考えてみる。世界がどのように存在していたとしても、それ自体が僕の知覚のあり方を決定づけるわけではない。そこには僕の主体的な知覚の余地が残されている。これは静的な作用だ。しかし世界が僕に対して能動的に作用をしてきたなら、僕はある一定範囲内でのリアクションが求められるし(誰かが話しかけて来たときにいきなり服を脱ぎ出す人はいないだろう)、それゆえ意識もそこに向かざるをえなくなる。これは動的な作用になってしまう。

一方僕がどのように存在していても、それだけで僕の知覚する世界像が変化するわけではない。 あくまで僕の知覚する限りにおいてではあるが、僕は世界に何もすることなくそのままの状態にしている。これは静的だ。しかし例えば自販機でジュースを買うとか小石を蹴るとかすれば動的な関係がそこに生じることになる。

 

僕と世界の間にこうした関係が成立しているとき、どちらも能動的な作用を及ぼしていないのだから主客という自己と他者を区別する感覚が希薄になる。 しかし一方で僕は世界からほったらかしにされているわけだから、自分がそこにいないような感覚を覚えるのも納得がいく。自己と他者の境界線が曖昧になりながらも明確に存在しているという重なり合った状態が生じているということだろうか?

 

なんだか騙されたような気分ですっきりしない。ただ、どうやらこの静的な相互作用というのが、世界がそのままで煌めいて感じられる不思議な現象の必要条件ではありそうだ。これは一般的には孤独な状態というべきだろう。何人たりとも僕の意識のいかなる部分も占めていないのだから。しかし孤独でなければ当然世界との静的な関係は成立しない。他人とのアクセスをシャットアウトして自らの知覚に任せることで世界のあり様の一つひとつが美しく感じられるかもしれないのなら、孤独もまた悪くはない。*1

 

 

 

 

*1:なんだか堂々巡りになってきたのでここでやめる。前回が長くて抽象的な話だったから、もう少し具体的で感覚に訴えかけるような話題にしようと思ってたのにどうしてこうなった……

表現という行為

こんなに長くなるとは思っていなかった。しかし一度書き始めた以上区切りがつくまでは書いてみようと思う。というわけで「映画的な アニメ的な」の続きだ。

checkpointcharlie.hatenablog.com

 

「そのメディアでしか実現できない表現を追求している作品」を僕は評価したい、と言った。そしてそれはあるものを表現しようとするときに、どのようなメディアを選択するかそしてそのメディアにおいて可能な手法をどのように用いるか、というのが作品のより深く理解する鍵になると考えるからだ。

「何を表現しているか」よりむしろ「どのように表現しているか」を問うのはなんだか倒錯した発想のように思える。この疑問を解消するには「表現という行為とは何か」と問わなければならない。果たして表現とは一体何なのだろうか?

 

例えば目の前に絶世の美女がいるとしよう。あなたはその美しさに衝撃を受け、何とかしてかたちに残し伝えたいと考えるだろう。表現の登場だ。

しかしここで大きな問題に直面する。あなたは美女の美しさを表現しようとしているが、その美女に対峙した際にあなたが感じとる美しさと他者が感じとる美しさというのは同じといってよいのだろうか?あるいはあなたは美女の美しさをそのままのかたちで正しく感じとっているのだろうか?そもそも「美女の美しさ」なるものは本当に存在するのだろうか?

一つ目の疑問は容易に否定してよいだろう。人によって美醜の基準というのは異なっており、あなたにとって絶世の美女でも他者にはそうでないという事態は十分にありえる。したがって二つ目の疑問も否定できる。同じ人物を見たとしてもそこから感じとる美しさは多様である以上、自分の感じた「美しさ」こそが正しいと主張するのはあまりにも乱暴だ。

では三つ目の疑問はどうだろう?目の前に美女は確実に存在する(もしその存在を疑うとなるとそれはこの記事では手の負えない議論に発展する)。しかし「美女の美しさ」なるものは存在しているといえるのか。僕は存在しないと考える。なぜならその美女は本来単にある顔のパーツの配列や身体的特徴を有しているに過ぎず、観察者という媒介を仮定して初めて「美しさ」という属性が付与されるからだ。それにもしそのようなものが存在するとすれば、あなたが感じとる美しさと他者が感じとる美しさの間に、「どちらがより本来の美しさに近いか」という優劣が生じることになってしまう。

こうして考えると、あなたが表現しようとしているのは「美女の美しさ」ではなく「美女に対峙したときにあなたの心に浮かび上がった美しさ」といえる。これは表現という行為の本質的側面の一つといっていい。つまり表現という行為の客体は、表現者という主体が何かを知覚したときに生じる表象なのだ。*1

 

あなたはあなたが知覚する「美女の美しさ」を表現しようとしていることがわかった。しかしまだ表現という行為は終わっていない。「美しさ」という表象を文学なり映画なりといった特定のメディアに流し込み、他者にもわかるように作品としてパッケージして初めて表現という行為が完了する。

しかしここでも大きな問題が起こる。果たして知覚の中に存在する表象を正確に具現化することはできるのか、という問題だ。あなたは自分が感じた「美女の美しさ」を思い通りに文字や映像に変換できているのだろうか?

当然、これも否定されるべきだ。表象というかたちのないものと作品という他者にも認知されるものが合同だとはいえない。ではこの両者の間には何が介在しているのか?

例えば「美女の美しさ」をイラストにするとしよう。あなたは筆やペン、あるいはフォトショップを用いてイラストを作成するだろう。そのとき、あなたは"手"を使ってイラストを描くはずだ(もちろん口や足を使って描く人もいるのだが)。

あるいは小説にするとしよう。このときもあなたはペンやワードを用いるだろう。これは本質的にはどうでもいい。結局は活字にされるのだから。しかし、この記事を読んでるならば、あなたは"日本語"で小説を書くはずだ。

つまり、表象と作品の間には本質的に身体もしくは言語が介在しているはずだ。*2*3

 どのような表現をするにも身体と言語から逃れることはできない。どれだけ熟練したピアニストであってもいかなるプレイも弾きこなせるわけではないし、どれだけ卓越した詩人でもその言語に存在しない概念を言い表すことはできない。

 

表現という行為について考えてきたが、ここでそれを定義することができそうだ。表現とは「ある主体が知覚した表象を身体もしくは言語を媒介として第三者に知覚できるようにすること」だ。

 

さて、「何を表現しているか」と「どのように表現しているか」の問題だ。

表現の定義を獲得した僕たちは「何を表現しているか」は表象の領域、「どのように表現しているか」は身体と言語の領域であることを理解する。 ここで問題にしたいのは、主体性はどこに存在できるかということだ。

 表象の領域において、主体の能動的役割は限りなく小さい。僕たちは世界をどのように知覚するかをコントロールできるだろうか?たしかに新しい価値観に触れることで物事の見方は広がっていく。しかしながらそれは知覚の条件を用意したに過ぎず、知覚そのものに作用するわけではない。表象というのは僕たちの精神に自然と湧き上がるものであってそれ自体をどうにかすることはできない。*4もちろん、どのような表象を取捨選択するかという段階においては主体性が認められる。しかし選択肢となる表象そのものが自然発生的なものである以上、主体性の役割は相対的に小さいと言わざるをえない。

一方、身体と言語の領域においては主体は一定の能動的役割を果たしうる。例えばイラストを描いているときに思う通りに書けなかったら人はどうするだろうか?試行錯誤を重ねるのではないだろうか?身体と言語による規定は本質的なものであって、それを超克することはできない。しかし拡張することはできる。そしてそれは表現者による能動的行為だ。

つまり「何を表現しているか」において表現者の主体性はとても弱い存在である。もちろん表現者すらコントロールすることのできない表象という現象を探ることは作品の理解において重要だ。しかし僕はあえて「どのように表現しているか」を重要視したい。それを探ることは表現者がどのように身体と言語という表現上の規定と格闘し、理想とする表現を生み出してきたかを探ることに他ならない。*5

 

ところで、映画や音楽といったメディアの違いはそのまま身体や言語による規定の違いに直結する。例えば映画と演劇の間には場所性と時間性といった規定の違いが存在する(身体は場所的・時間的存在だ)。こうしたメディアに固有の身体と言語の規定の中で、表現の可能性を模索しその境界線を拡張しようとすることが、そのメディアでしか実現することのできない表現を生み出していくのではないだろうか?

映画的な映画、アニメ的なアニメというのは表現者が映画に固有の規定、アニメに固有の規定と格闘してきたことで生まれた境界線上の作品だ。それゆえに僕はそこに必然性を感じ心を打たれるのだろう。

 

*1:この帰結は例として「美女の美しさ」をあげたことによる恣意的なものかもしれない。では表象の介在を許さない表現は考えうるだろうか?そのためには現実に存在するものを何の作為も加えることなく提示する必要がある。ここで思い浮かべるのは「レディメイド」と呼ばれる美術概念である。レディ・メイド | 現代美術用語辞典ver.2.0によるとそれは「大量生産された既製品からその機能を剥奪し『オブジェ」』として陳列したもの」だ。機能の剥奪という箇所に作為の余地がありそうだが、一方でそれは「人称性や作品への美学的判断の介入をも切断する」としている。つまりレディメイドは僕たちが検証している「表象の作用」に切り込んだ美術領域だといえそうだ。こうしてみるとレディメイドが投げかけるものは非常に大きいが、一般的な表現においては表象の介在を前提として議論を進めてよいだろう。

*2:表象と作品の間に文化的バックグラウンドも介在しているのではないかと考える人もいるだろう。尤もな指摘ではあるが、しかし身体や言語と同列に並べるのは間違っていると思う。身体や言語による制限はそれ自体が文化的バックグラウンドを内包しているからだ。とはいえ文化的バックグラウンドの作用を無視することはできないのでこれらの関係もいつか議論する必要がある(つまり今回は思考を放棄する)。

*3:ここでも思い浮かべるのは「レディメイド」だ。既に世界に存在するものを表現者の作為を介在させずに作品として提示するとき、そこに身体もしくは言語という表現の本質的規定は作用しているのだろうか?ここでそれを議論することはしないが、おそらく「レディメイド」はそうした表現の本質的規定を揺さぶる美術概念なのだろう。改めて「レディメイド」の投げかける視座の鋭さに驚嘆を隠すことができない。

*4:一方で表象の発生を受動ということにも無理がある。こうした自らが主体でありながらも、能動的に行為するわけではない現象をどう扱うかについては『中動態の世界』(國分功一郎著)が興味深い論点を提示しているので一読をおすすめする。

*5:表現という行為について深く考えるにつれて「何を表現しているか」という領域も意外とバカにできない重要性を帯びていることに気がついた。表現者すら自覚することのない作用の意味を考えることは作品の理解において一段と深い視座を与えてくれる。記事の整合性からあえて主張を変えることはないが、こうして新たな視座を発見できたのはこのブログを書いている目的に合致する。

映画的な アニメ的な

ベッドシーンというのはどうしてあれだけ美しいのだろう。

最近「アデル、ブルーは熱い色」という映画を観た。レズビアンの女性が運命的な女性と出会い、恋に溺れ、別れ、そして新しい人生を生きていく。そんな内容だった。

この映画は公開当時、過激なベッドシーンで物議を醸したらしい。しかし実際に観てみると、主人公が恋人に出会い共に過ごす喜びとその溺れゆくような欲望を、火花のように燃え上がる一瞬の刹那で表現するためには、そのベッドシーンは必要不可欠だと思えた。そこには主人公がこれまで送ってきた人生、抱いている感情、どうすることもできない衝動、そうした諸要素が一瞬のうちに結実していた。

もしあれが小説だったなら、あれだけ美しい場面にはならなかっただろう。あのベッドシーンにおける表現は、女優の息遣い、髪の乱れ、部屋の様子、カメラワーク、フィルター、そうした映画的手法を通じて実現されていたものだ。それは映画でしか表現しえない美しさだ。それは小説であってはいけないし、テレビドラマであってはいけないし、ましてやポルノであってはいけない。

 

映画でしか表現できないものを追求した映画には観るものを惹き込んでしまう美しさと説得力がある。映画的としか言いようがない美しさがそこに立ち上がり、これは映画でこそ表現されなければならなかったと思い至る。いわば映画的必然が実現されているのだ。僕はこうした映画に巡り会うと満ち足りた気分になる。

 

もちろんこれは映画に限った話ではない。最近僕がこれはと思ったアニメに「リトルウィッチアカデミア」がある。単なる記号に留まらない生き生きとしたキャラクターやお決まりの展開のようで丁寧に描かれることで充実した内容を獲得したストーリーも評価すべきだと思うが、この場で僕が言及したいのはその映像表現だ。

アニメは絵である、しかも動く絵である。だから映像表現の可能性は実写映画の比ではない(もちろん実写映画には実写映画にしかできない表現があって、優劣があるわけではないが)。アニメなら人間の身体の一部分を極端に大きくすることができるしスライムみたいに動かしたり一瞬のうちに色を変えることだってできる。そしてそうしたアニメ特有の映像表現はこれまでのアニメの歴史の中で試行錯誤され確立されてきたものに違いない。

リトルウィッチアカデミア」はそうしたアニメのクリシェをそのキャラクターやストーリーにふさわしい形で効果的に用いている。

 

youtu.be

例えばこの動画の2:20からのシーンでは、スーシィマンババランが顔に貼りついた鳥を引き剥がしているが、このとき鳥はあたかも吸盤か何かのような動きをしている。もちろんこの鳥が魔法によって吸盤の性質を獲得したわけではなくて、動作を誇張するための一種のアニメ的語法である。これによってコミカルなテンポ感を演出していることがわかるだろう。他のシーンでもこうしたアニメ独特の表現手法が随所に用いられている。

 このようにアニメ的手法を効果的に用いることで「リトルウィッチアカデミア」はその表現しようとする対象をアニメでしかなしえないかたちで実現している。僕がこの作品を評価しているのは、そうしたアニメらしいアニメを丁寧に作り上げているからだ。(そしてキャラクターとストーリーも素晴らしい!)

 

僕は作品を評価する際に「そのメディアでしか実現できない表現を追求しているか」という点を重要な基準の一つにしている。それはそうした視点が作品の本質的理解に近づくことができると考えているからだ。

映像や音楽、演劇、その他の芸術作品などを評価するときは一般に「何を表現しようとしているか」という点が重要視されがちである。しかし「何を表現しようとしているか」と同じくらい、あるいはそれ以上に「どのようにして表現を実現しているか」「なぜその表現を用いたか」という視点は作品の本質に肉薄しているのではないだろうか?言い換えればあるものを表現しようとするときに、その実現のためにどのようなメディアを選択するかそしてそのメディアにおいて可能な手法をどのように用いるか、というのは作品における表現の本質に非常に近いものなのではないだろうか?

 

表現という言葉が複数の意味的階層にわたっているため(当然ながら「なにを表現しようとしているか」の「表現」と「なぜその表現を用いたか」の「表現」は違う意味を指し示している)議論がわかりにくくなっている。つまりこういうことだ。同じ悲しみを表現しようと思っても映画でセピア色のフィルターを用いることもあれば、音楽でマイナースケールを用いることもある。しかしその作品を理解するうえでより大切なのは、その背後に潜む悲しみを汲み取ることではなく、手段として用いられたセピア色のフィルターやマイナースケールなのである。

 

僕たちは今どのように作品を理解するべきか考えている。しかし表現という行為が一体何であるのかを考えない限り、上記の主張はまったくの当て推量である。そしてそのことについて考えることで、表現という行為の限界も見えてくるのではないだろうか?

長くなってきたので問いかけをしてみたところで一度筆を置き、また改めて表現という行為について考えてみたい。

続く。

 

ところで

ブログをもうちょっとオシャレにしようと思ってヘッダーを設定してみた。

 

これは東西冷戦時代のベルリン地下鉄での風景。

かつてベルリンが東西に分割されていた時代も地下鉄は人々の足だった。しかしここでも冷戦の影は及んでいて、東西を貫く路線では東側の駅は封鎖され西側の駅と西側の駅を結んでいたのだ。地下鉄に乗った西側の人々は、東側の駅が警備隊しかおらず放棄されているのを不気味がって「幽霊駅」(Geisterbahnhof)と呼ぶようになった。

ブログ名にあやかって東西冷戦時代のベルリンをヘッダーに採用した。

 

元は白黒画像だったのだがそれではもの足りないので、ブルーノートのレコードみたいに青で塗りつぶしてシンプルなフォントを付け加えてみた。

ブルーノートのレコードは素晴らしいものばかりだが、中でもEric Dolphy のOut to Lunch! とAndrew Hill のJudgement! は内容もジャケットも超一流だと思う(もっともジャズレコードに関しては目下勉強中だが)。

 

そんな閑話休題

人生に意味はない

「やる気のあるものは去れ」

 

タモリ(日本のタレント 1945〜)がかつてオールナイトニッポンのスタッフに向けて語った言葉だ。これを聞いた人間はひどく困惑し、中には血相を変えて批判を試みる者もいるだろう。しかし僕に言わせればこれは至極正しい。やる気のある人間ほど鬱陶しく、そして面白みのない人間はいない。

 

やる気というのは目標に向かって自らを鼓舞しようとする精神的姿勢を意味する。つまりやる気のある人間は目標という一つのベクトルしか見えていない。だから僕には見える素晴らしい世界の一つひとつを彼らには見ることが出来ない。歩きながら熱心に本を読む人間は目の前に咲く花の美しさに気付かない。可哀想に。

それどころか彼らは目標という印籠を振りかざして、森羅万象を意味のあるものとないものに二分してしまう。自然と浮かび上がる好奇心の赴くままに観察すれば面白いものを意味がないと切り捨ててしまう。やる気のない僕からしたら非常に迷惑な話だ。しかも自分たちに大義名分があると思い込んでいるから余計にたちが悪い。

 

……悪口が過ぎてしまった。とにかくやる気の持つ弊害を看破したタモリの観察眼は見事としか言いようがない。(ちなみに彼はゴルフの場で「真面目にやれ!仕事じゃないんだぞ!」という言葉も残している。)

 

彼の発言と思想に出会った頃はその達観したカッコよさに感銘を受けつつもどこか納得しきれないところがあったが、歳をとるにつれその言葉の重みは増してきた。それだけ僕の思想も変化してきたということだろう。

 

「将来は世界を変えるビッグな人間になる」なんて微笑ましい夢を誰もが一度が抱くものだと思う。当然僕もその一人だった。

これは別に世界を変える素晴らしいアイデアを持っているわけでも見過ごすことのできない社会の矛盾を発見したわけでもなくて、自分の生きた証をなるべく多くの人間の記憶に残るかたちで残したいーー言い換えれば自分の人生が無意味に終わることへの恐怖感が生み出した願望だ。人間というのはそれだけ自分が生きる意味にこだわる生き物なのだろう。

 

意味のある人生とはいったいどんなものだろう?広辞苑を引いてみると(一度言ってみたかった!)、「意味」の項には「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」とある。つまり意味のある人生とは「他との連関において」重要な人生、ということになる。ここでいう"他"とはさしずめ家族や仕事、あるいは社会や国家にあたるだろう。

たしかに結婚して家庭を築くことがあれば家族にとって重要な人間になることができるだろうし、出世すれば仕事において重要な役割を果たすことができるだろう。そうした人生は多少なりとも意味はあるかもしれない。あるいは歴史上といわれる人物の中には社会や国家のあり方を変え、今でもその影響を残している人が数多くいる。こうした人たちの人生には大きな意味があったと言えるかもしれない。

しかし今生きている人たちのほとんどは歴史に名を刻まれることなく名もなき人として埋没していく。そもそも歴史に名が残るかどうかなんて後世の判断に委ねられていて自分ではどうすることもできない。もっと言えば一個人がどれだけの偉業を成し遂げたとしても、毎日太陽が昇りそして沈んでくことを止めることはできないし、いつの時代にもあったように人々が呼吸をして暮らしをして恋をすることを変えることはできない。

そう考えると人間の考える人生の意味というものが随分とちっぽけなものに思えてくる。そんな大したことのない人生の意味のために日々思い悩んで過去を振り返り未来を夢想するのだろうか……

 

僕たちの人生は実体を持たない意味なるものに支配されてはいないだろうか?

それでは自らの人生を有意義なものにしようと思い悩むなかで意味という一つのベクトルしか見えなくなってしまう。意味に支配された人生では他者にとっての重要性に気を取られ自分が人生の主体となることができない。過去での出来事と未来での意味ばかり見てしまい目の前に咲く花の美しさに気付くことができない。せっかく世界には面白い物事で溢れているのにそんなもったいないことはない。

 

それなら人生に意味なんて必要ない。ただ目の前に咲く花の美しさに心を動かされ、過去や未来や他者に左右されることなく今自分がしていることを面白がり、何にも縛られることなく自然と浮かび上がる好奇心の赴くままに世界の有り様を探求すればいいのだ。

 

あえて言おう、人生に意味はない。

 

 

性欲と性癖

いつからか、トマトジュースを見ると性的に興奮するようになってしまった。

綺麗な女性がドロっとしたトマトジュースを飲む姿は何だか黒魔術の儀式に備えてるみたいだ。今ではドロドロのトマトジュースを見るだけでゾクゾクしてしまう。

 

こうした現象をフェティシズム、というらしい。本来は性的な意味が付加されてないはずの物体に興奮してしまう人間たち。タイツフェチの人間はタイツが女性の脚に纏われていようがいまいがタイツそのものに興奮してしまう。

 

しかし考えてみれば不思議な話だ。なぜならフェティシズムはセックスの本来の目的ーー生殖に何ら利することがない!

 

話を変えよう。

マゾヒストと呼ばれる人がいる。彼らはセックスの時に肉体的ないし精神的な苦痛を受けることに快楽を覚える。もちろんそれは縄で吊るされ、痴態を嘲笑され、しかし身体的接触はない、例えばそんな行為が"セックス"の範疇に含まれればの話だが。

 

僕たちは性欲から逃れることが出来ない。それは種を絶やさないために進化が肉体に仕込んだ呪いだ。しかしそんな子孫を残すという本能に叶わない不合理な性欲を僕たちは抱いてしまう。

 

どうやらセックスには肉体に刻まれた本能とはまた違う領域が存在するらしい。

 

その領域に"性癖"という記号を与えてみよう。

性癖は不合理な欲望を抱かせる。性癖はエクスタシーへ導く。性癖は世界に新たな価値を与える。

 

性欲が肉体的な本能から生まれるのなら、性癖は精神世界が生み出す欲望といえる。

フェティシズムマゾヒズムはおそらく肉体的な本能とはいえず、精神的な現象だろう。だから僕がトマトジュースに興奮するのは性欲じゃなくて性癖だ。

これまで性欲だと思っていた欲求も、その根源を紐解いていくと実は性癖だった、なんてことが十分ありえるし、もしかしたら性欲と性癖が複雑に絡み合ったある意味とても人間的な欲求かもしれない。

 

しかしこう考えると性癖というのは実に厄介で恐ろしい欲望だ。

肉体には限りがある以上、性欲は底が知れているからある程度コントロールできるし、肉体的欲求は誰でもそれなりに共通しているのだから社会でも理解されやすい。(もちろんそれを上手く隠して然るべき場所で満たすことを求められいるのだが)

ところが性癖はそうもいかない。精神が生み出す欲望は終わりを知らない。一度満たされてももっともっとと求めてしまう。それに奇妙に発達した性癖(トマトジュース!)というのは、そう簡単には満たすことができないし理解も得られにくい。

 

おそらく性癖は、僕らがいつもは隠していて意識することのない心の傷や幼少期の記憶、生まれ持った性格といった歪みがセックスというフィールドに浮かび上がって歪んだ自己を満たそうとしたものなのだろう。だから性癖を矯正しようと思っても上手くいかず、果てには人を狂わせたりしてしまう。

 

僕たちは性癖から逃れることができない。