チェックポイントチャーリー

思考と身体の赴くままに

ところで

ブログをもうちょっとオシャレにしようと思ってヘッダーを設定してみた。

 

これは東西冷戦時代のベルリン地下鉄での風景。

かつてベルリンが東西に分割されていた時代も地下鉄は人々の足だった。しかしここでも冷戦の影は及んでいて、東西を貫く路線では東側の駅は封鎖され西側の駅と西側の駅を結んでいたのだ。地下鉄に乗った西側の人々は、東側の駅が警備隊しかおらず放棄されているのを不気味がって「幽霊駅」(Geisterbahnhof)と呼ぶようになった。

ブログ名にあやかって東西冷戦時代のベルリンをヘッダーに採用した。

 

元は白黒画像だったのだがそれではもの足りないので、ブルーノートのレコードみたいに青で塗りつぶしてシンプルなフォントを付け加えてみた。

ブルーノートのレコードは素晴らしいものばかりだが、中でもEric Dolphy のOut to Lunch! とAndrew Hill のJudgement! は内容もジャケットも超一流だと思う(もっともジャズレコードに関しては目下勉強中だが)。

 

そんな閑話休題

人生に意味はない

「やる気のあるものは去れ」

 

タモリ(日本のタレント 1945〜)がかつてオールナイトニッポンのスタッフに向けて語った言葉だ。これを聞いた人間はひどく困惑し、中には血相を変えて批判を試みる者もいるだろう。しかし僕に言わせればこれは至極正しい。やる気のある人間ほど鬱陶しく、そして面白みのない人間はいない。

 

やる気というのは目標に向かって自らを鼓舞しようとする精神的姿勢を意味する。つまりやる気のある人間は目標という一つのベクトルしか見えていない。だから僕には見える素晴らしい世界の一つひとつを彼らには見ることが出来ない。歩きながら熱心に本を読む人間は目の前に咲く花の美しさに気付かない。可哀想に。

それどころか彼らは目標という印籠を振りかざして、森羅万象を意味のあるものとないものに二分してしまう。自然と浮かび上がる好奇心の赴くままに観察すれば面白いものを意味がないと切り捨ててしまう。やる気のない僕からしたら非常に迷惑な話だ。しかも自分たちに大義名分があると思い込んでいるから余計にたちが悪い。

 

……悪口が過ぎてしまった。とにかくやる気の持つ弊害を看破したタモリの観察眼は見事としか言いようがない。(ちなみに彼はゴルフの場で「真面目にやれ!仕事じゃないんだぞ!」という言葉も残している。)

 

彼の発言と思想に出会った頃はその達観したカッコよさに感銘を受けつつもどこか納得しきれないところがあったが、歳をとるにつれその言葉の重みは増してきた。それだけ僕の思想も変化してきたということだろう。

 

「将来は世界を変えるビッグな人間になる」なんて微笑ましい夢を誰もが一度が抱くものだと思う。当然僕もその一人だった。

これは別に世界を変える素晴らしいアイデアを持っているわけでも見過ごすことのできない社会の矛盾を発見したわけでもなくて、自分の生きた証をなるべく多くの人間の記憶に残るかたちで残したいーー言い換えれば自分の人生が無意味に終わることへの恐怖感が生み出した願望だ。人間というのはそれだけ自分が生きる意味にこだわる生き物なのだろう。

 

意味のある人生とはいったいどんなものだろう?広辞苑を引いてみると(一度言ってみたかった!)、「意味」の項には「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」とある。つまり意味のある人生とは「他との連関において」重要な人生、ということになる。ここでいう"他"とはさしずめ家族や仕事、あるいは社会や国家にあたるだろう。

たしかに結婚して家庭を築くことがあれば家族にとって重要な人間になることができるだろうし、出世すれば仕事において重要な役割を果たすことができるだろう。そうした人生は多少なりとも意味はあるかもしれない。あるいは歴史上といわれる人物の中には社会や国家のあり方を変え、今でもその影響を残している人が数多くいる。こうした人たちの人生には大きな意味があったと言えるかもしれない。

しかし今生きている人たちのほとんどは歴史に名を刻まれることなく名もなき人として埋没していく。そもそも歴史に名が残るかどうかなんて後世の判断に委ねられていて自分ではどうすることもできない。もっと言えば一個人がどれだけの偉業を成し遂げたとしても、毎日太陽が昇りそして沈んでくことを止めることはできないし、いつの時代にもあったように人々が呼吸をして暮らしをして恋をすることを変えることはできない。

そう考えると人間の考える人生の意味というものが随分とちっぽけなものに思えてくる。そんな大したことのない人生の意味のために日々思い悩んで過去を振り返り未来を夢想するのだろうか……

 

僕たちの人生は実体を持たない意味なるものに支配されてはいないだろうか?

それでは自らの人生を有意義なものにしようと思い悩むなかで意味という一つのベクトルしか見えなくなってしまう。意味に支配された人生では他者にとっての重要性に気を取られ自分が人生の主体となることができない。過去での出来事と未来での意味ばかり見てしまい目の前に咲く花の美しさに気付くことができない。せっかく世界には面白い物事で溢れているのにそんなもったいないことはない。

 

それなら人生に意味なんて必要ない。ただ目の前に咲く花の美しさに心を動かされ、過去や未来や他者に左右されることなく今自分がしていることを面白がり、何にも縛られることなく自然と浮かび上がる好奇心の赴くままに世界の有り様を探求すればいいのだ。

 

あえて言おう、人生に意味はない。

 

 

性欲と性癖

いつからか、トマトジュースを見ると性的に興奮するようになってしまった。

綺麗な女性がドロっとしたトマトジュースを飲む姿は何だか黒魔術の儀式に備えてるみたいだ。今ではドロドロのトマトジュースを見るだけでゾクゾクしてしまう。

 

こうした現象をフェティシズム、というらしい。本来は性的な意味が付加されてないはずの物体に興奮してしまう人間たち。タイツフェチの人間はタイツが女性の脚に纏われていようがいまいがタイツそのものに興奮してしまう。

 

しかし考えてみれば不思議な話だ。なぜならフェティシズムはセックスの本来の目的ーー生殖に何ら利することがない!

 

話を変えよう。

マゾヒストと呼ばれる人がいる。彼らはセックスの時に肉体的ないし精神的な苦痛を受けることに快楽を覚える。もちろんそれは縄で吊るされ、痴態を嘲笑され、しかし身体的接触はない、例えばそんな行為が"セックス"の範疇に含まれればの話だが。

 

僕たちは性欲から逃れることが出来ない。それは種を絶やさないために進化が肉体に仕込んだ呪いだ。しかしそんな子孫を残すという本能に叶わない不合理な性欲を僕たちは抱いてしまう。

 

どうやらセックスには肉体に刻まれた本能とはまた違う領域が存在するらしい。

 

その領域に"性癖"という記号を与えてみよう。

性癖は不合理な欲望を抱かせる。性癖はエクスタシーへ導く。性癖は世界に新たな価値を与える。

 

性欲が肉体的な本能から生まれるのなら、性癖は精神世界が生み出す欲望といえる。

フェティシズムマゾヒズムはおそらく肉体的な本能とはいえず、精神的な現象だろう。だから僕がトマトジュースに興奮するのは性欲じゃなくて性癖だ。

これまで性欲だと思っていた欲求も、その根源を紐解いていくと実は性癖だった、なんてことが十分ありえるし、もしかしたら性欲と性癖が複雑に絡み合ったある意味とても人間的な欲求かもしれない。

 

しかしこう考えると性癖というのは実に厄介で恐ろしい欲望だ。

肉体には限りがある以上、性欲は底が知れているからある程度コントロールできるし、肉体的欲求は誰でもそれなりに共通しているのだから社会でも理解されやすい。(もちろんそれを上手く隠して然るべき場所で満たすことを求められいるのだが)

ところが性癖はそうもいかない。精神が生み出す欲望は終わりを知らない。一度満たされてももっともっとと求めてしまう。それに奇妙に発達した性癖(トマトジュース!)というのは、そう簡単には満たすことができないし理解も得られにくい。

 

おそらく性癖は、僕らがいつもは隠していて意識することのない心の傷や幼少期の記憶、生まれ持った性格といった歪みがセックスというフィールドに浮かび上がって歪んだ自己を満たそうとしたものなのだろう。だから性癖を矯正しようと思っても上手くいかず、果てには人を狂わせたりしてしまう。

 

僕たちは性癖から逃れることができない。

 

 

君にこのブログの読み方を教えよう

これを読んでる人は僕のTwitterから飛んでる人がほとんどだと思います。

そうです、ブログをはじめました。

 

じゃあ何で普段から公開オナニーみたいなツイートをしてるのに場所を移してまた公開オナニーしてるのか気になる人もいるかと思います。本当はそんな人いるとは思ってないけど導入のために仕方なく書きました。とにかく今回はそれについて話します。

 

なんでブログを書くのか?目的は主に二つーー思考の言語化と備忘録の作成、です。

 

そもそも僕は大学に入学してから、紆余曲折あって様々な屈折した感情や考えを抱くようになりました。そしてここ一年ほどは人と積極的に関わることを避けるようになっていたので、いよいよそうした思考はガラパゴス化の一途を辿ることになりました。

そして本を読んだり映画を見たりすると、そんな絡まりに絡まった思考も案外バカにできたものではないなと思うようになりました。しかし僕の脳内に渦巻く思念体を人に伝えるために、言語というフォーマットに変換しようとしてもなかなか上手くいかず、その思考の全体像を捉えることは困難を極めました。

そこでブログという場を使って、思念体たちを言語というロープで縛り付けて、肉眼で捉えられるようにしようという試みを思いつきました。ーーこれが一つ目。

 

僕の考えること感じることは、僕自身の身体性や記憶、環境に大きく規定されます。今僕が抱いている拗れに拗れた思考も、身体が衰え、新たな記憶が作られ、環境が変わってしまえば、きっといつか実感の伴わないただの情報に堕してしまうでしょう。それどころかそんなことを思っていたことすら忘れ去られてしまうかもしれません。

それはとても怖いことです。ぐるぐると思考しつづけて自分なりに大切に思える概念を発見することができたのに、身体の、時間の気まぐれによっていつか完全に消え去ってしまうかもしれません。

そんな恐怖を少しでも軽減するため、あえてブログという荒削りな形で、今僕が実感を伴って考えていること感じていることを残し備忘録にしようと思いました。ーーこれが二つ目。

 

目的を見てもわかるようにこのブログは僕のために書くのであって、それで共感を得たいとか承認されたいとか(それは嬉しいし幸運なことですが)のために書くわけではないです。もちろん他人が読んで理解できるように書きますが、読むにあたってそこは差し引いたうえで読んでほしいです。

 

「現在進行形の思考」がテーマなので色んなことが内容になると思います。社会とか精神とか性とか、もしくは内省や書評、映画や音楽の感想とか。

 

どんな風になっていくかわからないですが、これから生まれる記事が自分にとっての財産になればいいなと思ってます。

 

最後に、ブログのタイトルには自分なりに意味を込めてますが、それがどんな意味かはご想像にお任せします。終わり。